2017-08

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東山道武蔵路と桜


JR西国分寺駅の近くにある尼寺の遺跡。約1300年前、桜は咲いていたのだろうか。春の訪れを伝える花は何だったのだろうか。

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国分寺尼寺遺跡の隣の公園では、最後の春休みを楽しんでいる小学生の姿があった。

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桜の花のトンネルの向こうには、伝鎌倉街道の坂道がある。

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東山道武蔵路遺跡を復元しているが、1本だけ桜の木を残してある。

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国分寺市では、今日は入学式。入学式を終えた親子が桜の木と一緒に子供の記念写真を撮っていた。桜の木と比べることで、子供の成長がわかりやすくなるのだろう。
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鎌倉街道をサイクリングス本の紹介


『鎌倉街道をゆく』(栗原仲道著、埼玉新聞社)アマゾンでは扱っていなかった。わたしが見つけられなかっただけだと思うのだが。

「鎌倉街道」をサイクリングしようと思って開いたのがこの本。1997年に古代道路を歩くイベントを企画したが、その際についでに鎌倉街道も調べた。その時に買った本の姉妹編。道の細かいところは、ほかの資料でも調べてみた。それにしても、古書が消えるのは早い。次はわたしの番か。

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『鎌倉街道 古道探訪編』 購入を希望する人は、日本の古書店のサイトにリンクしてあるので、調べてください。

発行されたのは、昭和58年。4冊もので、各1300円だった。今は1冊1000円くらいだが、見つけるのが大変そうだ。でも、手書きの地図が書いてあり、時代も感じることができる。サイクリングに行く気にさせてくれる地図が待っている。

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『中世を道から読む』(斎藤慎一著、講談社現代新書)は2010年の発行時740円(税別)、アマゾンでは410円より、4冊しかありませんでした。

足柄峠、碓氷峠などを5万分の1の地図で紹介している。参考資料の一覧もあり、勉強にも使える。

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『中世の東海道をゆく』(榎原雅治著、中公新書)2008年の発行時は800円。アマゾンでは450円より。

こちらの参考資料の一覧がある。地図に関しては、古い資料かおこしたもの掲載されている。東海道に限っている点はユニークだが、奥は深かった。

悲田処跡を探してサイクリング、鎌倉街道をゆく

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伝鎌倉街道は、東京都国分寺市内にある武蔵国分寺尼寺跡の近くにある

10月9日、朝起きると晴れていた。今日は早めに「悲田処跡」を探しに行こうと思う。先日は古代道路を推定してルートを決めた。今回は、鎌倉街道を探しながら行くことにした。スタートは、武蔵国分寺尼寺跡の近くに有る伝鎌倉街道とした。

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陶器の破片が落ちていた

武蔵国分寺尼寺をのんびりと見た。10時30分になっていた。3歳くらいの子供と父親がいたが、遺跡に興味は無いようだ。近くに公園があるので、遊びに来ているのだろう。のんびりと歩くと、陶器のかけら、漆喰の破片のようなものが落ちていた。遺跡に関心のある人は、ほしくてたまらないだろう。3月に西安へ行き、秦の始皇帝が都とした咸陽城遺跡で拾った陶片は、欲しいという参加者にあげている。古代史に関心のある人の中には、当時の遺物を希望する人は多いようだ。まだ、遺跡へ行けば落ちている。。

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今も通勤や買い物に利用されている伝鎌倉街道

鎌倉街道は、鎌倉時代に各地と都の鎌倉を結ぶ道。たくさんあり、今でも利用されているケースもある。東京都国分寺市には、鎌倉街道と伝えられている「道」が、今でも買い物や通学に使われている。JR西国分寺駅から近く、南武線の脇を通っている。

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伝鎌倉街道の北の端は線路になってしまった

伝鎌倉街道は、北に進むと台地の上に出る。だが、南武線と交差して、消えている。ずっと北側を見ると、遠くに見える20階程のビルの脇(西側)を通っていたと思われる。まっすぐだと仮定してのことだ。

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高いビルの北側に行くと、伝鎌倉街道はJR中央線によっても寸断されていた

伝鎌倉街道は、確かに遠くに見えた20階程のビルの西側を走っていたようだ。JR中央線の北側に出ると伝鎌倉街道の延長線上に金網がある。ここから切通しを通って北へ進む道があり、一般に「鎌倉街道」と言われている道だった。

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東村山市にある「東村山ふるさと歴史館」

現在、鎌倉街道と言われている道は、以前は鎌倉街道だったのかもしれない。東京都東村山市には、「東村山ふるさと館」という郷土の歴史資料を紹介している施設がある。入場無料で、誰もが利用できる。有料の企画展もあるので、注意して欲しい。

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所沢市松が丘団地で見つけた「悲田処跡公園」の案内

東京都東村山市は、埼玉県所沢市と接している。その境界は、狭山丘陵と呼ばれている。例えば一番東側にある「八国山緑地」に上ると、東西に走る尾根は境界となっている。境界は道となっていて、案内や注意の看板を見ると、南側は東京都、北側は埼玉県。管轄が道の左右で異なるようだ。この一角に「悲田処跡」はあったようだが、説はいくつかあるようだ。今回のサイクリングで、私が見つけたのはひとつだけ。それは「悲田処公園」だった。埼玉県所沢市松が丘の団地の中にあった。だが、公園にあったのは、金属でできた看板だけだった。

こんな「処」だったのかと感心してみていたが、今でも行政により「一時避難所」と指定されているようだ。

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「悲田処跡公園」にあった金属製の看板。説明の文章を探したが、なかった。どうしてここなのか、遺跡が出たとかの理由が知りたかった。

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トトロの大きなぬいぐるみを店頭に置くお店

16時なので帰途についた。先日、気になっていたお店があったので、そのお店の看板娘ならぬ「看板トトロ」を外から撮影していると、「中に入って写真を撮っていきなさいよ」と大きな声で呼びかけるおばさんがいた。「大森酒店」。酒屋だった。呼びかけに応えてお店に入った。それにしても、態度の大きな客だなあ。

「このぬいぐるみはみんな私がインターネットで買ったの」「ここはトトロのふるさとだからね」「レジの後ろにもぬいぐるみがあるのよどんどん中へ入って」。お店番をしている白髪の多いおばあさんの写真も撮った。「あの子の家でなくて、お店に置くっていうの」。

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トトロのぬいぐるみを買って「大森酒店」の店頭を飾っているのは、(声の大きなおばさんなんて言っては失礼だった)お店版をしている女主人のお嬢さんだった。お嬢さんといっても50歳くらいだろうか。

女主人の話によると、彼女がこの酒屋さんにと嫁いだころ「、悲田処跡」と書いた石碑が、東村山市内にあったようだ。八国山緑地の斜面が崩れるのを防ぐために石垣を敷いたときに、石碑がなくなったという。「あなたが見たのは所沢でしょ。前は東京都にあったのよ」。なんでも近くにあるお寺の資料室に行けばわかるとのこと。この次はそのお寺へ行こう。3回目の「悲田処跡」探しの目標が決まった。

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「大森酒店」の商品棚。お酒よりもぬいぐるみが多いように見えた。

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ぬいぐるみは、以前は売っていたと話していた。

酒屋さんだから、もちろんお酒は売っている。ぬいぐるみも、売っていたという。今は買いたいという人がいなくなったようだ。
大きなトトロのぬいぐるみは、注文して作ってもらったようだ。おばさん、今度はお酒を買います。病気で飲めないんだけど。買うのは大丈夫。旅を味付けするのに、ショッピングや会話も大事なようです。この次は、お酒を飲める人と一緒に来たいものだ。

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帰りは、右手に日没を意識しながら方向を決めた

家に帰ったら18時。走行距離は43キロくらい。買い物もしないで「大森酒店」で話し込み遅くなった。それでも、次回の「悲田処跡」探しのサイクリングが楽しみになってきた。





バス停「悲田処跡」を探して古代道路をサイクリング。


東京都国分寺市にある「古代道路」を伝える案内板

東京都国分寺市は、古代道路を発掘した後に、絵や写真、文章で紹介している案内板が多い。また、JR西国分寺駅の近くには、復元した古代道路の一部、約400メートルを整備している。道路としても利用できるようにして、誰もが普通の暮らしの中で古代の風景を想像し、武蔵野の緑に覆われた地を這うように進む古代道路と地面の凹凸を感じることができるように整備している。古代道路を発掘したあとも、市民に親しまれるようにと工夫しているように思う。

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古代道路遺跡の発掘風景

古代道路は、約1300年ほど前のもの。中国の制度を取り入れて、直線的に作られたとされている。それ故に、今日の道路やマンション工事、公園や学校のグランドの整備など地面を深く掘り返す際に発見されることが多い。直線的なので、どこを掘り返せば出てきそうか推測できるらしい。発掘により、工事の方法や道路整備の痕跡もわかってくるようだ。

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古代道路の発掘現場を結んで、古代道路を推測した案内板

専門家の推理した古代道路を案内板で表示したものもある。道路遺跡の発掘現場を結べば、素人にも描けるかもしれない。

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台地の上から武蔵国分寺などを眺めた想像図

JR西国分寺駅の近くには、台地を通る古代道路から眺めた武蔵国分寺の周囲を想像した看板もある。道路は、直線的に描かれている。

今日は、天気予報通りに晴れたので、古代道路の遺跡を見学しながら、埼玉県所沢市にあると言う「悲田処跡」を探しに行くことにした。探すといっても、候補地はいくつもあり、はっきりしたことがわからない。10年以上前に歩いた際に、「悲田処跡」というバス停を見つけたので、そのバス停を探すのが今回のサイクリングの目的だ。それに、手術の後、時速20キロで走れるのか、往復40キロを走れるのか。これを確かめるのも目的だった。ダメだったら、戻ればいい。輪行の用意もした。遅くなるのも覚悟で、灯りも持った。

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JR西国分寺の東にある復元した古代道路

スタートは、JR西国分寺駅の脇にある復元した古代道路。午後1時頃に国立市の団地を出た。太陽は出ていたが、雲も出ていた。長いズボンに長いシャツ、普通の格好。その上にフリースを着た。古代道路には、歩いて古代道路を調べているようなおじさん、自転車の練習をしている親子、赤ん坊を抱いた母親がいた。道路脇はビルとなり、ビルの谷間を古代道路が通っている風。長屋の路地を拡大した風だ。以前は空が広かったのだが。

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悲田所のあったと思われる地域の地図

「悲田処跡」というバス停は、埼玉県所沢市にある。ところが、古代道路の発掘現場を結んで進むと、八国山緑地に至った。埼玉県内のはずだが、どうも、都立公園らしい。境界はどうなっているのだろうか。まあ、自治体の境目ということは、辺境だったのだろうか。

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コンビニの後ろに塚を見つけた

所沢市松が丘、インターネットで調べて、地図をプリントアウト。池を目印にペダルを踏むと、山の形が見えた。将軍塚といわれているものらしい。ちなみに、台地の上は、古代道路が残っている。川などを横切ると、洪水などで水路が変わることもあり、移動することがある。また、私は時速20キロから30キロ。よく道を間違えた。うろうろした。

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「悲田処跡」のバス停

団地の一角で「将軍塚」のバス停を見つけた。さらに進んで西側に「悲田処跡」のバス停があるはずだ。だが、みつからない。バス停が引っ越したのだろうか。引っ返そうと思っていたとき、電柱の向こうにバス停が見えた。だが、一戸建てが並ぶ団地の中。住宅の真ん中。悲田処跡らしき空間も見当たらない。将軍塚といっしょなのかと思って、ペダルを踏んで坂を上る。ペダルが重い。各戸は国立と比べて庭が広い、空き地も多い。坂の連続……、上りきると雑木林だった。

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登りきったら行き止まり。

ここから先は歩いた。将軍塚を探して歩いたが、散歩のおじさんおばさんがいるだけ。通路から離れた、誰もいかない小さな広場にベンチと石碑があった。将軍塚だった。「悲田処跡」はなかった。トイレへ行きたくなった。300メートルほど歩いてトイレへ行った。なんと、その後ろには駐車場が見えた。車でも上れたのか。

「悲田処」は、貞観3年に設けられたらしい。西暦で言えば861年のことだ。古代道路を作った理由は、都(みやこ)から地方へ文書を送るのが目的だったはずだ。ところが、多くの旅人が通って、食べる物に困ったことを思わせる「悲田処」の設置。命を落とした人もいたようだ。

すでに仏教が日本に伝わっている時代、古代道路は国府と同時に国分寺も結んでいた。となると、命を落とした人はお寺で葬られたのだろうか。となると、悲田処の近くにはお寺ができたかもしれない。葬式仏教じゃなかったかもしれないけれど。コメなどを備蓄する倉庫もあったのだろうか。次回からはこんなことを考えながら、八国山緑地の周辺をのんびりとペダルを踏んで巡りたい。

16時頃、黒い雲が出てきたので急いで帰宅。途中でコンビニで水分補給。17時30分に帰宅。雨に降られることはなかった。走行距離は37キロ。次は、朝から行こう。




「悲田所」探しのサイクリングに挫折した1日、シルクロードは遠かった

天気もいいので「悲田所」へサイクリングに行こうと思った。手術後の経過もいいし。

「悲田所」のことは、中学校の日本史の授業で習っていた。だが、現実感はなかった。

10年ほど前に、古代道路を歩く企画を計画した。中央線の西国分寺から栃木県の壬生寺をめざす。1回では歩き通せない。15キロほどに分けて、日曜日を利用して数回歩いた。

この時に、埼玉県所沢市内で「悲田所跡」と記している停留所を見かけた。この時の参加者には、地図を渡して、古代道路と推測されるルートを示していた。ところが参加者は、歴史にはあまり興味を示さなかった。話が遠すぎたのだろうか。電車の駅まで距離があることもあり、そのままになっていた。

最近、近所に住む友人に「悲田所」のことを話した。関心を示した。後日会うと、インターネットで見たけれど住宅街の中に有ることがわかり紀伊持ちは盛り上がらなかった、出かける気にはならなかったと話していた。

「悲田所」と書いたバス停がある。公園もある。新しく立てた石碑もある。しかし、悲田所の場所はわかっていない。これが現実だ。でも、バス停だけでも見たい、周辺の風景だけでも見たいと思ったのだ。

ところが、facebookを見ていたらロシア語で言う「カレイスキー」、高麗人のことを書いた文章を見つけた。カザフスタンのアルマトイのゴーゴリー通りに面した公園で、著者はカレイスキーの生き残りである朝鮮人と合うことから書き始めていた。

タイトルは「『北朝鮮の冬』を逃れ『ソ連の春』を求めた留学生たち その数奇な生涯をたどる」とあった。

最近、シルクロード雑学大学に入ったメンバーの友人、その父親がアルマトイに抑留されていた。いわゆるシベリア抑留者だった。また、その父親は、ソビエトではないけれども、戦前にある国へ亡命した人だった。しかも、モスクワ、満州を経由している。そんな人が抑留されていたことも驚きだが、抑留者に向けて発行されていた「日本新聞」に関わっていたこともわたしの関心を引いた。

シベリア抑留のルートは、抑留者の手記やインタビューでは知っていた。だが、風景や寒さ、人家の感覚などの実際は知らない。せめて自転車でたどってみたいと思っていた。

そんなわけで、この文章を読み始めたら「悲田所」行くのは明日でもいいと思うようになったのだ。

今の時代では、好きで旅行や移動をしている人が多いと思う。しかし、移動手段が発達していない時代であっても、人はいろんな事情で移動や旅を強いられていたようだ。今も同じなのかもしれない。

「悲田所」に寄ることになった人たちは、どんな事情を抱えていたのだろうか。明日こそ出かけたい。

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