2013-02

シベリア抑留とシルクロード キルギス共和国

シベリア抑留者の絵画展
シベリア抑留体験を持つ画家の絵画展

中央アジアのキルギス共和国のラーゲリで1946年から1948年まで捕虜として労働を強いられた元日本兵のことを調べている。一般的に言われる「シベリア抑留者」である。その関係で、シベリア抑留研究会、シベリア抑留者支援・記録センターと関わっている。

シベリア抑留の体験を持つ熊本県の画家の絵画展が、都内で開催されるので手伝ってほしいと声をかけられた。

タイトル:「《死者のために》宮崎静夫の世界」
日時:2012年3月20日(水)~26日(火) 11時~19時
会場:九段ギャラリー(千代田区立九段生涯学習館2階、千代田区九段南1-5-10、地下鉄九段下駅6番出口前)
入場無料

期間中は、宮崎静夫さんが熊本から東京へ来て、毎日会場にいてくれるという。また、テレビ熊本が呼びかけて宮崎さんがラーゲリを再訪した際の様子を放映している。このビデオを会場でみることができる。私も時々は会場で留守番をする。

自転車でシルクロードを20年かけて見聞する「ツール・ド・シルクロード20年計画」では、1999年に天山山脈を越えて中国のカシュガルからキルギス共和国のビシケクをめざした。

だが、100年に一回という洪水に遭遇、国境へと続く道は濁流の流れに姿を変えていた。ウルムチ、ビシケクと飛行機で天山山脈を越えて、バスでキルギス共和国の天山山脈の支脈、その麓にあるナリンをめざした。この町からビシケクまでペダルを踏んだのだった。

「自らの脚力で天山山脈を越えたい」との思いで、2000年に再チャレンジ。だが、中国の国境警備兵が協力的でないために、峠の53キロ手前で走行を終えなければならなかった。

2001年12月に地球と話す会を退会し、2002年からはシルクロード雑学大学で「ツール・ド・シルクロード20年計画」を継続することにした。

2006年に3回目の天山山脈越えにチャレンジする準備の段階で、「キルギス共和国にシベリア抑留者の一部が過ごしたラーゲリのある」とのキルギス人の証言があることがわかった。しかし、厚生労働省の資料にも抑留者の証言集や手記にも、キルギスのラーゲリで強制労働に従事したという元日本兵の記録や証言はなかった。

幻のラーゲリだった。こんなことからキルギスにおける抑留者のことを調べるようになった。詳細は後日、紹介します。
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被災者による写真展・報告会 大槌

津波と大槌
有楽町の東京交通会館で開催されている写真展「リメンバー大槌」

昨日(2月24日)は、有楽町にある東京交通会館で始まった写真展「リメンバー大槌」を見に行った。被災者が、津波の当日に撮った写真を展示している。また、撮影者が動画も交えて報告会を開催するというので14時にスタートする報告会に間に合うように出かけた。

23日の朝日新聞夕刊の社会面で紹介されていたこともあり、会場は超満員だった。展示している写真を撮影しても構わないと大きな声で告知している人がいたので、肖像権に関係ない写真だけを写してみた。携帯電話のカメラやコンパクトカメラで撮影したものなので画像が荒かったりするが、津波が家を飲み込む瞬間など、当事者にしか撮れない写真ばかりだ。

報告会では、線路の上に立っている10数名の写真の説明を前に、言葉が出なくなった報告者がいた。線路の向こうに押し寄せる津波がみえる。線路の上から「津波が来ているから早く線路に上がれ」と避難を呼びかけている間に、半数ほどの人が津波に飲み込まれた。そんな結果になると思いもせずシャッターを押した写真。近所の人の最後の姿となった写真を、家族以外には見せることもなく、はじめて公にしたのだと語っていた。

消防団員として消防車ごと津波に巻き込まれ九死に一生を得た男性は、16名の団員仲間を失った上に、連日の遺体捜索と収容、「20人30人とまとまってあるご遺体は、津波にもまれて洋服は着ていない、手足のないのもあった。見たことはないけれども地獄でしたね」と淡々と話す。家も家族も失った団員に「お前はいい、家族がいるから。俺は家族も家も失った」との他の団員の自暴自棄の独り言のような言葉に、かける言葉を見つけられなかったと涙ぐんだ。

若い役場の職員は、地震の発生後「自宅のある地域に戻って活動するように」との指令に従って自宅の近くにある避難所へ車で向かい、津波の一部始終を携帯電話でビデオ撮影した映像を流しながら話した。彼も、家族以外に見せることのなかった映像だという。「ユーチューブで『スゲエ』と言われるのがいやだった」と話してから映像を見せた。

「津波を伝える防災放送があったから、役場は大丈夫だと思っていた」
その役場で、町長以下40名の職員が命を落としたのは、後から知ったという。行政マンらしく、「緑の屋根が吉里吉里保育園です」、「今、役場が移転している小学校です」などと、津波の引いた後に残った公的施設を解説し、津波前後の人口の変化にも話を進めた。最後に、「19メートルの堤防を作り、内側に鎮魂の森を設けて、被災を風化させない」と大槌の未来像の絵コンテを披露して締めくくった。

新しい町長は、「高台移転したくても、高台移転の候補地が明治の末から登記に変更がない。家族も亡くなっていて、権利のあるものは100名をくだらないと思う」と復興への道のりの遠い一因を説明していた。

地元でもすでに津波被害の風化が感じられるという。春になったら、自転車で訪ねてみよう。

日本語を話す朝鮮族 蘭州での出会い

蘭州の中山橋
蘭州の中山橋と黄河

「ツール・ド・シルクロード20年計画」を始めたのは、1993年。1991年に設立した市民団体・地球と話す会の取り組みとしてのスタートだった。

1993年は西安から蘭州。そして2年目の1994年は蘭州から張掖まで、自転車を利用した脚力によるシルクロードの見聞だった。

張掖まで走り、帰国に際し飛行機を利用する都合でバスで再び蘭州に戻った。夜の11時頃、すでに休んでいたが強い調子でドアをノックする音で覚めた。ドアを開けると通訳の李梅さんだった。北京の大学で日本語を学ぶ21歳の女性だ。

部屋に入るなり彼女は「蘭州大学の日本語の先生に電話をしたら、旦那さんが日本人と話しをしたいといっているので会ってほしいというんです。電話で話してください」と、部屋の電話の受話器を私に差し出した。

「日本から自転車旅行で蘭州へ来たと聞きました。久しぶりに日本語を話したいので自宅へ遊びに来てください」
夜も遅いので丁寧にお断りしたが、

「これからでもいいですよ。若い日本人と話ができるのですから楽しみにしています。遠慮しないで下さい。お酒は飲めますか。ああそれなら、お酒を準備してお待ちしています」
と一歩も退かない。タクシーでお邪魔することにした。たまた京都に住んでいる在日3世の女性も参加していたので、20歳の彼女も誘って出かけた。

タクシーの中で李さんに聞いてわかったのは、蘭州大学の先生と夫は朝鮮族で二人とも日本語を話すこと。旦那さんは日本の大学を出ている元医師ということだった。

10分ほどで男性の家に到着した。部屋に通された。待っていたのは老夫婦だった。二人は宴の準備をして、私たちを待っていた。白酒とビールを飲みながら問われるままに、14歳から65歳まで36名の自転車旅行の様子を話した。

「日本語が上手ですね。私の日本語よりも美しい日本語ですよ」
と、一息ついたところで問いかけた。

「わたしは、現在では韓国ですが、全羅南道で生まれました。当時は日本の支配下だったので、学校で日本語習っていたのです。15歳のときに日本の本土の学校へ進みました。日本大学の医学部を卒業して、軍医として満州の病院に勤めました。日本が戦争に負けたときに、朝鮮族として中国に残り、医師として病院に勤務しました」

話しながら、わたしに盛んにビールを勧め、わたしはうなづきながら小さな杯を白酒で満たした。

「病院に勤務していましたが、お金がたまると病院の経営を始めました。順次病院の数を増やして8つ目の病院を開業したときに、文化大革命になりました。病院はすべて没収され、蘭州に送られて、再び一人の勤務医として働くことになりました」

「朝鮮半島で日本人として生まれ、日本のためにと思って医師の道を選びました。大学を卒豪後は満州で日本人の医師として日本のために働きました。日本の敗戦後は、中国人として、今度は中国のために懸命に働きました。病院も増やして。でも、文化大革命で全部失いました。今は78歳ですから医師として働いてはいません、ささやかな年金暮らしです」

「時間は気にしないで、さあさ飲んでください」
歴史に翻弄された半生を、それも翻弄した側の日本人を前にして話しながらも、恨む風はなかった。自身の若い頃を思い出し、懐かしむような表情だった。

70歳になるという奥さんは、蘭州大学で日本語を教えながら、日本語学校でも日本語を教えていた。その教え子が李さんだったのだ。朝鮮族同士の結婚で、二人ともきれいな日本語を話していた。奥さんも下放された身であるのだろうが、時間が気になり聞く機会を逃した。すでに1時を過ぎていた。

「日本へ帰ったら何か贈りましょう。何がほしいですか」
と別れ際に訪ねた。

「それでは、若い人のお言葉に甘えますよ。啄木の詩集と味噌、それに日本酒をいただけますか。日本の、若い頃を思い出しました。ああ懐かしい」
若き日を思い出してのリクエストであろう。日本人そのものではないか。歴史に翻弄された78歳、人生のゴールまでは気持ちよく過ごしてほしいと願って、約束した。

1ヶ月ほど後、北京へ向かう友人に託して、岩波文庫の啄木の詩集と味噌、紙パックの日本酒一升を北京から蘭州へと送ってもらった。
李さんを通して夫妻が喜んでいるとの知らせを耳にしたのは、1週間ほど後のことだった。

ウルムチで聞いた日本語

西域南道
西域南道をゆくラクダキャラバン

新華書店を出て人民広場に出た。目的もなく歩いていると「日本人でしょうか。何かお手伝いすることはありませんか」と声をかけてくれた男性がいた。

1991年のことだ。当時は、ウルムチではあまり漢族を見かけなかったので、日本人だとばかり思っていた。日本人以上に確かな日本語だった。男性は65歳くらいで、ちょっと古風な日本語を話した。ウルムチでの滞在は2週間ほどだったが、特に困っていなかったので、ちょっと話した後で「ありがとうございます」とお礼を言って別れた。

周囲のウイグル人と言葉を交わしながら去っていく後姿を目で見送った。その振る舞いを見てハッとした。日本人じゃない。ひょっとして、漢族じゃないか。

ウイグル人とは顔見知りの風だし、ウイグル人の社会にしっかりと根を張って生きている風だった。あの人は日本人ではなく、文化大革命のときに下放された漢族ではないか。もっと話しを聞きたくなった。どこで日本語を学び身に付けたのか、確かめたいと思った。しかし、その姿は路地に消えていた。

文化大革命のとき、日本語を話せるというだけで、日本人と接点がある。そんな理由で辺境の地へ送られた知識人も多いと、知識としては知っていた。

しかし、ウルムチという地で日本人と同じように日本語を話す人を目の前で見て、すぐに「下放」という言葉を思い出すことはなかった。

下放され、そのままウルムチに暮らすことになった漢族ではないかと、今でも思っている。
あの時、何時どこで日本語を身に付けたのか聞かないで別れたことを、今でも残念に思っている。現代史の証言に触れることができたのにと。

1991年、2月下旬に日本を出発していた。中国の新疆ウイグル自治区チャルクリクからカシュガルまでラクダに揺られて2ヵ月半の旅。テント生活を続けてカシュガルに到着したのは5月半ばだった。その後、車、バス、列車を乗り継いで上海から帰国したのは7月も半ばを過ぎていた。

遣欧使節・支倉常長とローマ



西安からローマまで、シルクロードを自転車で見聞する「ツール・ド・シルクロード20年計画」は、昨年(2012年)、ローマにゴールして目的を達成することができた。

2011年から「ローマにゴールしたら、次は何をするの。どこへ行くの」との会員の声が聞こえるようになった。私は20年間走り続けた。だが、シルクロード雑学大学に最近入会し、サイクリングが面白くなったメンバーにとって、2012年のローマゴールで「ハイさよなら」では梯子を外される気分だったのだろう。

実は、わたしは当初からローマで終わりとは思っていなかった。世界各地を自転車で走り回っている日本アドベンチャーサイクリストクラブの仲間たちから、ロカ岬を訪れた話しを何度も聞いていた。「ローマの次はロカ岬」と思っていた。だが、歴史の道を巡ることに興味がありシルクロード雑学大学を始めたわたしにとっては、何か歴史がらみの理由が必要だった。

たどり着いたのは、ローマ街道。そこで、「シルクロード走破」から「ユーラシア大陸横断へ」との『キャッチフレーズを掲げて、今年(2013年)はローマからミラノ、2014年はミラノからバルセロナと西へ向かうことにした。ロカ岬への到着は2016年を予定している。

今年走行予定のルートはローマからミラノ。ローマからジェノバまではローマ街道のアウレリア街道を走る計画としている。アウレリア街道そのものを走ることはできないだろうが、所々でローマ街道の面影を感じたいと願っている。

ローマを出発して最初に宿泊するのは、Civetaveccia(チヴェッタヴェッキア)という港町を予定している。
調べてみるとCivetavecciaは、歴史の上で日本ととても深いつながりがあった。

1613年に宮城県の牡鹿半島にある月の浦という港を出発し、スペインに上陸した後、支倉常長の率いる遣欧使節はローマをめざした。教皇パウロ五世に会うために上陸したイタリアの地がCivetavecciaだったのだ。

港町には、支倉常長の銅像があるという。また、豊臣秀吉の命令によって処刑された日本人20名と外国人6名を題材としたフレスコ画が、日本聖殉教者教会にあるとも言う。思いがけないところで、「歴史の道」と遭遇した。

遣欧使節の移動したルート、支倉常長の行動を知りたいと思って購入したのが、冒頭の「ローマへの遠い旅」という書籍だ。

「歴史の道」シルクロードを調べて旅することを願って「ツール・ド・シルクロード20年計画」をはじめたが、足元の歴史、日本史を学ぶことになった。犬も歩けば棒にあたるじゃないけれど、動いていれば歴史との出会いも巡ってくるようだ。

出発までに牡鹿半島の月の浦へも行ってみたい。もちろんペダルを踏んで。

「ツール・ド・シルクロード20年計画」写真展と報告会

本日(2月29日)の読売新聞朝刊の都民版で、JR阿佐ヶ谷駅南口にある「阿佐谷ぶらっとりー」で予定している写真展と報告会が紹介された。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20130219-OYT8T00066.htm

写真展も報告会も懇親会も、誰でも参加できます。

写真展の紹介
タイトル「自転車紀行 シルクロードをゆく」
日程:2月28日(木)~3月4日(月) 9時~20時、(初日は13時より、最終日は17時まで)
会場:阿佐谷ぶらっとりー(杉並区阿佐谷南1-47-17、JR阿佐ヶ谷駅南口下車徒歩2分)
入場無料

報告会の紹介
タイトル「ツール・ド・シルクロード20年計画」報告会&懇親会
日程:3月3日(日)14時30分~17時

内容:
①「バイオリンの源流とシルクロード自転車紀行」(市川武邦、八王子市在住、元小学校長)
定年後に手作りバイオリンの工房を開設して、バイオリン製作に従事。バイオリンのルーツは中央アジアの楽器にあるとの説を追い、自転車でシルクロードを巡りながら民族楽器を収集。馬頭琴の修理にも取り組んでもいる体験を話します。2002年のウズベキスタンから毎年参加しており、これからも参加して自らの脚力によるユーラシア大陸横断をめざします。

②「ツール・ド・シルクロードに13回参加して」(山田悦子、日高市在住、元保育園長)
 在職中から参加。イランではマントとスカーフ姿でペダルを踏み、キルギスの民族楽器コムズも習っている。各地での体験を通して女性の社会的地位など気づいたことを話します。

③「シルクロードを舞台にライフワークのある人生を過ごす」(長澤法隆、ライター、58才) 
 人生80年時代と言われる時代にあり、健康で楽しく自由時間を過ごす一つの方法として、シルクロードを調べて学び旅した体験、20年間における国際社会の変化などを話します。

④今年(2013年)の遠征「ユーラシア大陸横断サイクリング」の説明会・参加者募集中
Ⅰ.この計画では、千葉県銚子市にある犬吠崎に「犬吠崎・ロカ岬友好記念碑」が設けられ、ポルトガルとの交流があることから、2016年にロカ岬に到着の際には銚子市長の親書を届けたいと計画している。また、毎年帰国後に、銚子市内にある銚子ポートタワーで遠征の様子を伝える写真展も計画している。
Ⅱ.今年、2013年の遠征では、約2000年前のローマ街道・アウレリア街道に沿って自転車旅行を計画している。
Ⅲ.ローマを出発後に訪れるCivetaveccia(チヴェッタヴェッキア)は、1615年に遣欧使節団を率いた仙台藩士・支倉常長が教皇パウロ五世との謁見のために上陸した港町で、街の中に支倉常長の銅像が立っている。1613年に遣欧使節団は、日本を出発している。今年は400年目にあたる。

参加費:1000円
問合せ:シルクロード雑学大学 電話042-573-7667、nagasawa_horyu○△ybb.ne.jp(○△を@に換えて下さい)

懇親会の紹介
会場:「CHICKEN LEG cafe」(03-5305-3269、阿佐ヶ谷地域区民センターの隣)
日時:17時15分~2時間半
参加費:3500円

国分寺から古代道路サイクリング

国分寺の古代道路
西国分寺の復元した古代道路から、国分寺市、府中市、多摩市の古代道路の発掘地点を結んでサイクリングをと思って出かけた。

しかし、あまりにも寒いので2時間ほどで帰宅した。暖かく感じた部屋の気温は10度だった。

次回からは、GPSとGPSカメラを持ってルートを記録し、順次ホームページで紹介する計画だ。

1日も早く暖かくなってほしい。ベランダの梅のつぼみは開花寸前だ。春よ来い。

ローマ街道サイクリング

ローマ近郊のガイドブック
神田神保町にあるイタリア書房から注文した本が届いているとのメールがあった。早速、出かけた。注文していたのは「自転車で巡るローマとその近郊」というタイトルのガイドブックだった。

他にも、イタリア全土のサイクリングロードの地図、ローマ街道を特集している考古学の専門誌を注文していた。イタリアのフィレンツエにあるお店に問い合わせてもらったが、探すことはできなかった。

1993年にはじめた「ツール・ド・シルクロード20年計画」は、昨年(2012年)、ローマへゴールした。中国の西安からの1万5千キロを20年かけてのんびりと自転車で巡り、夢を実現することができた。一人ではない、多くの仲間と一緒に駅伝のようにリレーしながら、毎年1回18日間の自転車旅行でシルクロードをつむいだ。

1993年に20年計画をスタートした頃、バルカン半島は紛争中だった。ユーゴスラビアを通れないと考えていたので、トルコを見聞した後はブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、オーストリアとバルカン半島の北側を巡り、ロマをめざすルートを計画していた。

ところが、2011年にブルガリアのソフィアからペダルを踏み出す時、ユーゴスラビアは解体していた。セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、クロアチアを自転車で巡ることができた。そして、昨年の4月に、クロアチア、スロベニアを楽しみ、ローマに到着したのだった。

中央アジア、カフカス、バルカン半島といった歴史上において紛争の耐えない地域は、自然がゆたかで穀物の生産量が多いように見受けられた。人口と関係する穀物の生産量は、国力のバロメーターでもある。ゆたかな土地だった。また、海や川、山脈といった地形を考慮すると、東西南北の交通の要衝でもあった。

自然の厳しさと人間の暖かさに触れる20年の旅だった。

ローマに到着すると、「ロカ岬をめざそう」「ユーラシア大陸を結ぼう」という声が出てきた。一緒に走っているメンバーの大多数が、団塊の世代から75歳くらいまで。新しい夢の舞台は、約2000年前のローマ街道ペダル紀行。そして、ユーラシ大陸を結ぶ脚力の旅。

こんなことから求めた一冊だった。

防人の道を歩く

市川国分寺跡
写真は、千葉県市川市にある国府跡

「防人の道」と称して茨城県の鹿島神宮から福岡県の太宰府まで、10名ほどで歩いたことがある。毎月一回、土日の1泊2日を利用して歩く旅を、1年半続けた。もっとも大阪の難波宮から博多までは、防人は船で移動したようなので、わたしたちは新幹線で移動した。

駅伝制というが、駅路と伝路は異なる。中央から地方への指示を伝える手紙を早馬で届けるのが駅路。実際に役人が任地へ移動する際に利用したのが伝路のようだ。駅路は、地形を無視して直線的に配置している。

国府跡や国分寺跡、発掘された古代道路を結んでルートを決めた。

静岡県のある地域では、お寺に立ち寄り住職に「古い道路に関する言い伝えがありますか」と聞いてみた。北側にある山の上を指差し「おじいさんがみかん畑の間を通っていた、と話しているのを聞いたことがある」との返事だった。

私たちが歩いていたのは、江戸時代の道路だということも教えてもらった。となると、山の方を通っていた古い道路、海辺を通る現代の道路、そして二つの間を通る江戸時代の道路。時代の変化とともに道路は、海と山の間で階段状に3段になる。

地震による津波を被害を避けるために、古い時代の道路は山の上を通っていたのだろうと思われる。地震災害が風化するとともに集落も道路も海辺に下りてくる。そんなことを繰り返していた証が、海辺と山の間に残された道路の痕跡と考えられる。

現代の東海道、鉄道は、海辺を通っている。歴史から学ぶ知恵は、便利さの前では機能しないのだろうか。

復元された古代道路 西国分寺

復元された古代道路
自宅から自転車で15分ほどのところに約1300年前の古代道路を復元した公園がある。公園といっても、幅12メートル、長さ400メートルほどの道路をカラフルに舗装して、古代の道路のスケールや側溝があったなどの構造がわかるようになっているだけ、遊具はない。車は入れないので、子供たちの自転車の練習によく利用されている。JR西国分寺駅の近くにあるのだが、土曜日や日曜になると説明文の前で熱心にメモを取る姿を見かける。

平安京から岩手県の盛岡市にある志波城まで延びる東山道。JR西国分寺駅の近くにある復元された古代道路は、栃木県の足利駅と東京都府中市にある武蔵国府を通り東海道に通じていた。東山道武蔵路と呼ばれていたが、東山道を利用する使いが足利駅を通るとき、この道路を利用して武蔵国府に立ち寄る決まりになっていた。

古代道路は、新幹線やバイパス道路、ビルの工事といった際に発見されて、各地で発掘されている。最近、その数は増えている。

中国の史書『旧唐書』に、654年日本から斗のように大きな琥珀が献上された、との記述があるという(「新訂旧唐書倭国日本伝」岩波文庫)。日本の考古学者は、大きさから推定し、琥珀の産地を岩手県の久慈と想定している。となると久慈から平安京に献上された琥珀は、さらに大宰府からシルクロードへ旅立った。その前に、JR西国分寺駅脇の復元された古代道路を通っのかもしれない。

久慈の琥珀が長安まで運ばれた道。シルクロードへ続く道は、陸奥とも繋がっていた。唐の皇帝に献上する物品を求めて、朝廷の使者は古代道路を使って、珍品を求める手紙を津々浦々までばら撒いていたのだろうか。

古代道路の遺跡を結んで琥珀の道を旅する。今年のサイクリングコース目標の一つである。

イシククル湖と熱海湯

久しぶりに神楽坂へ行った。赤城神社の隣にある赤城社会教育会館で開催された生涯学習講座に講師として招かれ、「シルクロードを旅して」と題して話をしたのだった。参加者の平均年齢は75歳くらいであろうか。

中国や中央アジア、パキスタンなどを何度も旅行している人から、講演のあと話しかけられた。
「中国の新疆ウイグル自治区をパックツアーで旅行したけれど、高速道路や鉄道でなく、のんびりと旅したい」という気分になったという。楽しんでもらえたようだ。

帰り道、神楽坂を降りている間に思い出す所があった。ぜひとも立ち寄ってみたくなった。それは銭湯だ。
友人の宍戸茂さんが『西南シルクロード紀行』(朝日出版)を出したのは、2009年10月だった。出版会館で、出版記念パーティーが行なわれた。光文社闘争の面々が集まって盛大に楽しんだ。

2次会に行くことになり、路地に入った。銭湯があった。暖簾には『熱海湯』の文字。「宍戸さん、『ねっかいゆ』だって、イシククル湖と関係あるんですかね」と話しかけた。玄奘三蔵はイシククル湖のことを『熱海(ネッカイ)』と記録している。イシククル湖を何度も訪ねた私は、『熱海』の文字を『ねっかい』と読む習慣になっていた。

「長澤君、『あたみ』と読むんだよ。熱海温泉の『あたみ』だよ』
さらりと答え、宍戸さんは2次会の飲み屋の縄のれんの向こうに消えた。

こんなことを思い出し熱海湯の前に立った。
やはり『ねっかい』と読んだのだった。

ユーラシア大陸で岬めぐり

犬吠岬の遠景
ロカ岬と結ぶ友好碑は、犬吠岬のほかに3つある。ロシアには、テジョニフ岬とチェリンスキー岬、そしてマレーシアのタンジュン・ピアイ岬。ユーラシア大陸の東の端に建てられているという。
ユーラシア大陸で岬めぐりの旅。ぜひとも、自らの脚力、自転車で訪ねて、ユーラシア大陸の大きさ、地球のスケールを実感してみたいものだ。

ユーラシア大陸の東西を結ぶ犬吠岬とロカ岬

先日、写真展を開催するので千葉県銚子市へ出かけた。会場は、銚子ポートタワー。銚子市内の老舗の缶詰会社である信田缶詰㈱の元会長信田臣一氏の紹介で会場を借りた。
信田氏は「銚子の犬吠岬とポルトガルのロカ岬は、ユーラシア大陸の東西の端にあることから友好碑を建てている」と教えてくれた。

20年かけて自転車でシルクロードを巡る「ツール・ド・シルクロード20年計画」を企画し、1993年に西安を出発、2012年にローマにゴールした。毎年1回のサイクリングを駅伝のようにつなぎ、20年目にゴールしたのだった。

その続きとして、2000年以上前に作られたローマ街道をめぐり、大西洋に面したポルトガルのロカ岬を訪ねる自転車旅行を、今年(2013年)の5月にローマからはじめる計画を立っていた。このことを知って、信田氏が旅の味付けを一つ紹介してくれたのだ。

銚子へは東京駅からバスで向かったが、自転車をバスで輪行していた。すぐに、犬吠岬へ向かった。

友好の記念碑はすぐに見つかった。青い太平洋を背景にした白い灯台、その手前に2mほどの記念碑があった。

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