2017-11

難民になった日本人


『満州難民 三八度線に阻まれた命』(井上卓弥著、幻冬舎)、2015年5月発行1900+税、アマゾンでは1398円によりある。

昨日(11月21日)は、シベリア抑留研究会出席するために神谷町にある大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウスに行った。

いつも国立駅前にある西友、地下1階の自転車置き場に自転車を留める。この日は、1台ずつ駐輪ラックに入れて、帰りに清算するシステムに変わっていた。2時間までの利用は無料、それ以降は200円。有料になっていた。

今日のシベリア抑留研究会の講師は、『満州難民 三八度線に阻まれた命』(幻冬舎)の著者の井上卓弥氏。多くの日本人が満州に渡ったが、その数は約155万人。また、敗戦時には民間人の男性のほとんどが徴兵されており、満州にある自宅にいなかった。不在だったのだ。

敗戦後、日本人男性は兵士になっていた人も民間人も、多くがシベリアに抑留されたことはよく知られている。では、女性や子供はどうしたのか。その一つの例を、著者は母や叔母、家族や周囲の人の体験を掘り起こして記録している。著者の家族を含めた日本人は、帰国を願って中国の奉天から北朝鮮にある郭山という小さな集落に集団で疎開したものの、38度線を越えて南下することが叶わなかった。

中国の奉天に住んでいた民間人1000名あまりが、奉天から北朝鮮の郭山へ集団で疎開した。ほとんどが女性と子供だった。敗戦から半年ほど過ぎた1946年2月末になって、著者の家族を含めて疎開した1000名ほどの半数が、再び北朝鮮と中国の国境を列車で越えて奉天に戻ることになった。その理由は、38度線を越えて日本へ帰国できるめどが立たないこと。集団疎開した1000名あまりの食糧を確保するのが難しくなっていたことから、口減らしの意味もあったようだ。

栄養不足から幼い子供たちから命を落としていった。子供を気遣いながら命を落とす母親もいた。子供がいても母乳の出る母親はいなかったようだ。

夫である男性は、ほとんどが満州にあった民間会社に勤めており、敗戦の直前に満州で徴兵されている。当然ながら、シベリアに抑留された人も多い。

以上のように、満州から北朝鮮の小さな集落に疎開した経緯とその後、そして彼らは日本政府からも見放された難民だったと著者の井上さんが説明してくれた。

井上さんは、コソボの難民キャンプを取材したこともある毎日新聞の記者だけに、難民という視点で満州で暮らしていた日本人に目を向けていた。しかも戦争で語られることの少ない女性や子供に視点を置いた把握の仕方に、なるほどと思った。歴史に関する雑誌や本では、戦術や戦略を扱うことが多い。そうではなく、生活者の視点から戦争を見ることの重要さを実感したのだった。

また、井上さんは、日本と北朝鮮の間に国交がないから、郭山で日本人と接して親切にしていた北朝鮮の人たちが、どのような戦後を送って、その後どのような生活を送ったのか。子供たちや孫の世代も含めてどのようにしているのか、知る由もないと語ってた。その前に、国交のないことの意味は大きいのだが。

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難民に関して板書で整理して説明する成蹊大学名誉教授の富田武さん。どう説明したらわかりやすいのか、電車の中でも考えていたという

シベリア抑留研究会の会場には、子供の頃に満州から帰国した人、満州で徴兵された後にシベリアに抑留されて亡くなった人が家族の中にいる、しかしどこで亡くなったのか、土地も時期も厚生労働省に聞いても分からない、というた人も来ていた。厚生労働省があてにならないから、糸口を求めてシベリア抑留研究会に来ているようだった。

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ウズベキスタン(Uzbekistan)のタシケント(Tashikent)に住んでいる「日本人」(右から2人目)

わたしは2002年に中央アジアにあるウズベキスタン(Uzbekistan)のブハラ(Bukhare)からトルクメニスタンのマリー(Mar)まで自転車で旅行している。

この時、飛行機の発着の都合でウズベキスタン(Uzbekistan)のタシケント(Tashikent)に行っている。郊外にあるコリアン・コルホーズに足を運んで、ここに住んでいる日本人に会っている。

彼は、敗戦の時、樺太に住んでいた。2人の兄がいた。日本人の子供であることが、ロシア兵に知られたら迫害されるかもしれないと思った両親は、子供たちを知り合いの朝鮮人に預けた。食糧難の時代だから、3人を別々の朝鮮人の家庭に預けたようだ。ところが、樺太にソ連が侵攻すると、スターリンによって朝鮮人は中央アジアに移送された。みんな民間人だった。

日本人を預かった朝鮮人もタシケント(Tashikent)に移送された。郊外にあるコリアンコルホーズに、一緒に強制移住させられた朝鮮人と一緒に住むことになった。彼は大人になると有名なジャズ・ドラマーになった。日本から原信夫とシャープ&フラッツが公演に行くと、ドラマーとして一緒に演奏したという。写真も見せてくれた。

また、日本と国交のない北朝鮮にも演奏に行き、生き別れになっていたお兄さんと再会することができたという。もう一人のお兄さんは、東北に住んでいると話していた。仙台だったと記憶している。マスコミの関係者に話して、東北に住んでいるお兄さんを探すのに協力しようかと提案した。だが断られた。北朝鮮に住むお兄さんに、何らかの被害が及ぶのを恐れたのかもしれないと、わたしは感じてた。

肉親捜しも北朝鮮が関係すると一歩も動かなくなる。井上さんの話を聞き、国交のないことがこの兄弟の場合にも影を落としているのかもしれないと、思い出したのだった。

2002年に会った時、コリアンコルホーズに住む日本人の彼は、60代半ば。定年できれいな日本語を話していた。今思えば、周辺に日本語を話す人がいるから、幼くして両親と別れた彼の日本語は由緒正しき日本語のままと思われる。子供ならば、幼児語しか知らないはずなのに。それに彼は、中風を患い歩くのが不自由だった。周囲に住んでいるコリアンの人が、身の回りを世話していた。今年はタシケントに行き、彼の「戦中戦後」に耳を傾けたい。このような例はまだまだ多いのかもしれない。

『満州難民 38度線に阻まれた命』を読んで、著者の話を聞き、個人の生活や人生の視点から国家のあり方への疑問を実感した。

シベリア抑留といえば満州に住んでいたり徴兵された日本人の理不尽さを思う。さらに、この本のように生活した女性や子供にも視点を広げてほしいと思う。戦後が終わることはない。
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